kafu-ainomama

「セクシー田中さん」の原作者芦原妃名子さんについて日本テレビや小学館が守りを固めた今、事態を打開する方法はあるのだろうか

今回は音楽以外の話題を取り上げます。

個人的にとても気になる話題なので取り上げることにしました。

この件の経緯をご存じない方は、こちらをクリックしてお読みください。

この記事は後で削除するかもしれません。

先日私がXで発信したポスト

ある漫画家の自殺が話題になっています。

それについて私が考えたことをポストしたいと思います

昔私は漫画を取り扱っている大手出版社で働いていました

入社時私はトラウマになりかねないほど抑圧的な研修を受けました

それは主に差別用語や著作権についての研修です

今私は異業種に転職しているので、出版社に勤務していません

しかしその頃の記憶が蘇ってきました

著作権の中には同一性保持権というものがありますが、これはオリジナルの内容を勝手に改変されないよう原作者の権利を保護する趣旨のものです

法律的にいえば脚本家には、ほぼほぼ自由裁量はありません

法的には原作者の権利が絶対的すぎて、それを翻案する人は気の毒なほど裁量が限定されています

しかしどうやらテレビ局は法律の枠外にあるらしく、売れればいいだろうと札束で頬を引っぱたくみたいなところがあって、様々な寝技を駆使しては出版社や原作者を締め上げます

儲かればいいだろうという超法規的な圧力は、それが具体的な行動を伴った時、狡猾で陰湿、時には相当エグいです

出版社もまた営利企業ですから、売れればそれで良しと考える人もいますが、全員ではありません

中には原作者に寄り添いたいと考える担当編集者もいます

今回の件で小学館の担当者がどのようなスタンスなのか、私はそこが一番気になります

もし小学館の担当者や上の思惑が残念な場合、この件はうやむやになる可能性が非常に高いと思います

既に原作者はこの世にはいないのですし、遺族も悲しみに打ちひしがれているものの当事者ではありません

もし小学館が強気に出ないとしたら、この件はこれで終わりです

戦わずして終戦です

しかしもし担当編集が原作者の無念を晴らそうと考えていたら、おそらく今現在社内で戦っている最中だと思います

私は「セクシー田中さん」の原作者、芦原妃名子さんが気の毒すぎて、小学館が日本テレビと戦ってくれればと願っています

しかし小学館においても上の方針は絶対だと思われますし、担当編集が異を唱えたとしてもどこまで戦えるかは分かりません

そこで世論から小学館への働きかけが重要だと感じています

今回の件では日本テレビを非難する声が大きいように思います

しかし鍵を握っているのは小学館です

日本テレビはどんなに非難されようとも、時間が経過すれば実質的には勝ち確定です

本質的に謝罪ではない言説を煙幕にして守りに徹すれば、時の経過によって逃げ切れます

そこには時間が経過すればみんな忘れるだろうという計算が働いています

しかし小学館がその予定調和を許さなければ、日本テレビは逃げ切ることができません

今後はテレビ局と出版社のせめぎ合いが焦点になるように思います

ちなみにテレビ局と出版社は同じマスコミに属していますが、かなり社員のカラーが異なります

昔の話ですが、テレビ局の社員は盛大な内定パーティを開いていて、参加者はこれから自分たちが日本を動かすのだというような傲慢な発言があったと聞いたことがあります

一方出版業界はそれほどお気楽ではありません

それから年月が経過し、今やテレビは斜陽産業になりつつあります

今回の残念な事件は、今だに自分たちが中心で世の中を動かしている意識が抜けきらない、しかし確実に影響力が低下しつつある歪みの中で起きたように思います

この事件は後にテレビが衰退する1つのエピソードになるかもしれませんが、その過程で才能のある原作者の貴重な命が失われたことに慙愧の念を禁じえません

先程申し上げた通り、この件はインターネットでどんなに騒いだとしても、日テレが手足を引っ込めた亀の甲羅のごとく保身に走れば、確実に逃げ切れます

この件を打開できるのは、小学館しかありません

日本テレビを激しく非難するのは簡単です

しかしテレビ業界の驕り体質を覆す実効性を重視するならば、小学館に働きかけて日本テレビとの対立構図を生み出す方が得策です

彼女の死を無駄にしたくありません
彼女の死を無駄死にしまい

もしその趣旨に賛同していただけるのならば、感情にまかせて日本テレビを非難するのではなく、現状に胡坐をかきふんぞり返って鉄壁の防御を固めた相手を打ち破るべく、小学館に情報公開と対応を迫るよう淡々と行動すべきだと思います

この悲しい事件を教訓として、この世界がより良いものに変わるならば、彼女の死は無駄ではなかったことになります

そういう世界線でありたい

R.I.P.

https://twitter.com/otomashigura/status/1753389163414684082

※最低限文意が通るよう原文とは少しだけ言い回しを変えています。

このポストは現時点で336000インプレッション、2194リポスト、3665いいね、494ブックマークと予想を超えて拡散されました。

この記事はこのポストの続編として書かれたものです。

 

なぜ私はこの件をスルーできなかったのだろうか

普段の私はスキャンダルについて、特に興味があるタイプではありません。

良くも悪くも人畜無害の音楽好きです。

しかしこの件は毎日新しい情報が出ていないか、ついチェックしてしまいます。

彼女の無念が私を突き動かしているのかもしれません。

私は彼女のような優れた漫画家と自分を同列に置くつもりはありません。

しかし笑われるのを承知で申し上げれば、私は彼女と少し似たところがあると思っています。

だからこそ私は見過ごせなかったのかもしれません。

 

攻撃的ではない人は自己嫌悪に陥りがち

私はあまり戦闘的なタイプではありません。

たとえばネットの世界には、端的に怒りを表現できる人もいます

この事件でいえばこんな感じ。

「日本テレビも小学館もクソだ。原作者の命をなんだと思っているんだ」

上の言葉はごもっともですし、私もそう思っています。

上の言葉を誰かが言ったとしても私は気になりませんし、その通りだと思うことでしょう。

しかしいざ自分が言うとなれば、途端に激しい自己嫌悪に襲われます。

私は自分が攻撃的になることについて、たとえ主張が正しかったとしても、その攻撃性が自分に跳ね返ってくるタイプ。

言葉は時にナイフになります。

もし自分が正しくてやむを得ず相手にナイフを突きつけたとしても、その行為は自分をも脅かしかねません。

私はそういう風に考えてしまう人です。

 

攻撃したくなくてもきちんと説明したいという切実な気持ち

だからこそなるべく論理的に説明しようとしますし、そのせいか無駄に文字数を費やすことになりがちです。

実際、上のポストも随分長文になりましたし。

芦原妃名子さんは、死ぬ直前自分のブログで急遽自分が「セクシー田中さん」の脚本を書くことなった経緯を説明しています。

その文章を読んで私は、彼女は経緯を説明したかっただけで、攻撃する意図はないように感じました。

私は彼女が長文で反論した気持ちが分かるような気がします。

彼女が書いた文章には、しっかり説明せねばという思いがにじみ出ていました。

しかし同時に誰も気付付けたくないという思いも。

彼女が残した最後のメッセージは、以下のようなものです。

攻撃したかったわけじゃなくて。

ごめんなさい。

https://twitter.com/ashihara_hina/status/1751457987397652676

彼女がブログで経緯を説明したのが2024年1月26日、上のポストは同1月28日のものです。

そして彼女は1月29日に自ら命を絶ちました。

この時点で彼女は死ぬことを考えていたかもしれません。

この最後のメッセージが私を駆り立てました。

 

関係性を整理すると

この件では日本テレビと小学館は静観し事件が風化することを待っているように思われます。

そこでその前提に立ってこれからどうしたらいいか、私なりの考えを書いてみたいと思います。

前回の私のポストには、小学館と日本テレビはグルだから解決しないという意見が目立ちました。

しかしそれでも抜け道はあると思います。

この件はスポンサー、日本テレビ(&小学館)、原作者、消費者という関係性を意識した方がいいかもしれません。

上記の関係は少しじゃんけんに似ているかもしれません。

こんな関係を想像していただければと思います。

スポンサーは日本テレビには強いが、消費者には弱い。

日本テレビは原作者には強いが、スポンサーには弱い。

消費者はスポンサーには強いが、日本テレビには弱い。

 

読者の存在は小学館のアキレス腱のようなもの

先日のポストでは日本テレビがだんまりを決め込んでいれば、いずれ嵐が去ると考えているだろうと書きました。

今は小学館も同じ姿勢かもしれません。

しかし小学館が加わったことで、その鉄壁の沈黙に弱点が生じました。

消費者は日本テレビに直接お金を払う存在ではありません。

つまり消費者がどんなにがんばっても、日本テレビはただ静観していればいいだけです。

消費者は小学館と直接つながっています。

つまり小学館は消費者からお金を得ている立場。

小学館は関連会社にHuluがありますし、本だけではない事業も展開しています

この関係においては、消費者が小学館に対して優位にあるといえます。

私はいたずらに不買運動をあおろうと思っていません。

いただいたコメントの中に、抗議のためにHuluを解約したという方もいらっしゃいました。

個々の判断において解約するならば、第三者がとやかく言う権利はありません。

 

小学館の社内を想像してみた

またそれで売り上げが減ったとしても、この事件に起因していることを企業は気付きません。

気付かないよう必死にふるまっているかもしれませんが。

原作者の命を軽視する経営判断を下した経営陣は、自社の関与と責任を認めたくないのだと思われます。

おそらく現場には心を痛めている編集者もいることでしょう。

しかし編集者の9割が経営陣の判断を不快に思ったとしても、1割にすぎない上層部が決めたら現場は反抗できません。

編集者はつぶしの効かない職業ですから、編集者は社内で想像以上に弱い立場です。

小学館がこの件について積極的に動かない背後には、そうした力関係もあるように思います。

【追記】
この記事を書いてから「小学館 第一コミック局 編集者一同」の声明を読みました。

原作者に寄り添った良い文章だったと思います。

ただそれが小学館そのものの声明ではなかったことについては残念に思いました。

現時点で小学館の経営陣が下したダンマリを決め込む方針は何ら変わっていません、

自分たちの面子を保ちつつ、ガス抜きしようとしているのではないかと感じなくもありません。

現に今でも小学館は芦原妃名子さんのSNS発信を問題視する立場を堅持しています。

現場の編集者でも良い人ばかりではありません。

経営陣の考え方が変わらないままであれば、また同じような問題が起こる可能性があります。

私は今回の件について、小学館が経緯の説明と再発防止策を講じるべきだと思います。

小学館がそう舵を切れば、日本テレビも態度を変えざるを得ません。

 

抗議の意思を伝えることの重要性

そこで解約がこの事件由来であることを、小学館に認識してもらわなければいけません。

もしこの事件がきっかけで雑誌の定期購読やHuluを解約したいと思った方がいたら、この事件に対する小学館の対応に失望して解約したことを伝えた方がいいかもしれません。

解約の画面で解約理由を入れる欄にそう書けば、小学館の担当者には伝わります。

もし解約理由の記入欄がない場合は、小学館愛読者サービスセンターなどにかけて、その旨意見を伝えるのも一つの方法です。

消費者が解約理由を伝えること、それは圧力ではなく普通の消費者行動です。

小学館は消費者からお金を得て会社を存続しています。

それなのにもし消費者が不快に思う経営判断をして、売り上げが減少したとしたら、その代償は支払うべきではないでしょうか。

小学館は上場会社ではないので株主のチェックはありません。

だからこそ今回の事件も逃げ切れると過信していることでしょう。

しかし読者は必ずしも従順な羊のように隷従するとは限りません。

 

小学館には兵糧攻めのリスクがある

昔から守りを固めた城攻めに効果的な攻め手は、兵糧攻めです。

ここ数日の動きから、小学館が日本テレビと同じく何もしない可能性が高まりました。

私は日本テレビが沈黙することについてはモラルの問題はあるのものの、正直やられたなと思います。

消費者は直接日本テレビにお金を落としていませんから。

だからこそ手足を引っ込めた亀のような鉄壁の防御が可能になります。

ただそれでも攻略方法はあるように思いますが、それについては後で述べたいと思います。

一方小学館は日本テレビとは異なり、読者から直接お金を受け取る立場です。

今回の何もしないという小学館の経営判断は、消費者を著しく不快にさせるものです。

その気になりさえすれば、消費者は小学館の本を買わない判断をするかもしれません。

私はよくこんなリスキーな経営判断をしたなとあきれます。

 

売り上げが減少したらどうなるか

おそらくこうした経営判断の背景には、小学館の驕り体質があると思います。

なんだかんだ言っても消費者は受け身な存在で、出版した本を買うだろうとなめてかかっています。

消費者は日本テレビに金銭的対価を支払ないので、ダンマリされてしまえば、事態の打開は困難です。

しかし小学館は消費者と直接繋がっているので、読者が消費行動を変えさえすれば突破口になりえます。

小学館は上場していませんが、出版業界は構造不況に見舞われています。

その原因はデジタル・シフト、人口減少など多々あり、前年の売り上げを維持するだけで大変なはず。

現在小学館の経営状況を見ると、売り上げの減少幅以上にレバレッジが働き、赤字に転落しやすい状態です。

重ね重ねよくこんな経営状況で消費者に喧嘩を売ったなと思います。

 

もし不買運動が起こったら

私は不買運動を呼びかけようとは思いません。

しかしXを見ると、既に不買運動を呼びかけるポストが増えています。

もしそうしたハッシュタグが拡散されて、小学館の不買運動が大きな奔流となれば、一気に苦境に立たされることでしょう。

守りを固めた城を落とすには、昔から兵糧攻めが有効です。

経営陣の面子と現金収入の悪化のどちらを選ぶか、世論の盛り上がり次第で小学館は苦しい二択を迫られます。

世の中には力関係と損得でしか動かない人がいます。

この事件では、お金=力>>>>>>>>>命 という構図が2社に対する不快度を高めています。

今回の件ではその価値観が具体的な企業の行動として顕在化しました。

そういう企業の行動原理はとても単純です。

「お金を出す人が力関係で上」と認識し、上にはこびへつらい下には強い態度をとる。

その力関係は、時に普通の人間の感情を圧殺しようとします。

今回の事件のように。

そうした企業にそれはおかしいとモラルを問うても、全く効果はありません。

力関係=お金でしか動かない人は、まずそこを脅かさない限り事態の好転は望めないと思います。

 

スポンサーへの問い合わせ

日本テレビはスポンサーからお金を得ています。

原作者の意向に反して改変されたテレビ番組が放送された場合、消費者はスポンサーに問い合わせる場合があります。

この時注意したいのは、単なる抗議にならないこと。

スポンサーが直接悪いわけではありません。

もし企業の窓口に対して、一方的に激しく責め立てたとします。

しかし窓口の担当者も人間です。

結果として、おかしな人の意見と片づけられかねません。

ましてや爆破予告などしてしまったら、味方の足を引っ張ることにしかなりません。

テレビ局が勝手に原作を改変した結果、消費者の怒りの矛先がスポンサーに向かいかねないことについて、同情的なぐらいがいいかもしれません。

この件では日本テレビと小学館、一部の脚本家以外、ほぼすべての人は原作者に同情的だと思います。

窓口の担当者も、我々と同じように感じている可能性が高いかもしれません。

だからこそ尚更スポンサーを味方に付けるよう言動を考える必要があります。

 

問い合わせる時の注意点

また問い合わせる際には、具体的に問題点を伝え、その改変がどのような意図によるものか、スポンサーから日本テレビに問い合わせてもらうよう依頼したらいいかもしれません。

「製作上の都合」というようなあいまいな回答ではなく、具体的な回答を希望したいと。

怒りをぶつけるだけだと、その場だけで終わってしまい、事態の好転には繋がりません。

丁寧に質問し、後日その結果を教えてほしいと依頼したら、スポンサーからテレビ局に問い合わせがいく可能性があります。

その場合はその場だけの話で終わりません。

それでも動かないスポンサーもあると思いますが、全てがそうではないと思います。

先日のポストにも書いた通り、法的には原作者はかなり保護されています。

それなのにドラマの制作現場が勝手に改変してごり押しするのは、法律を遵守していないことを意味しています。

コンプライアンスの問題があるという事実を投げかけた方がいいかもしれません。

企業を動かすには、意外とそういう客観的な事実の指摘がカギになることがあります。

 

消費者はスポンサーに対して優位

前述したように、テレビ局の弱点はスポンサーです。

しかし消費者はスポンサーにモノ申せる立場で、立場的に優位性があります。

法的に問題ある行為や感情を吐き出す言動はおすすめしません。

なぜならそれらは本質的に相手に利するだけの行為ですから。

問題は解決せず、理解できない人を被害妄想に陥らせるだけです。

相手を被害妄想にさせるより、淡々と資金源を断つことを考えた方がいいかもいいかもしれません。

論理的で丁寧で粘り強い行動こそが、確実な結果につながるように思います。

ただ今回の事件は既に番組放送が終わっています。

もしまた同じような件があった場合には、効果的かもしれません。

これまでは問題が起きた後、どうしたらいいかについて述べました。

 

責任の所在をあいまいにする仕組み

次に日本テレビ&小学館と原作者の関係を考えたいと思います。

原作者を軽視する改変が行われる背景には、業界の陰湿な体質があります。

たとえば責任の所在をあいまいにできるよう、以下のような伝言ゲームが行われています。

原作者 →出版社の担当者 →テレビ番組のプロデューサー →脚本家

時には上にマルチメディア事業部の担当者も加わったりすることもありますが。

「マルチメディア」とか「メディアミックス」とかそういう名前が付く部署が、問題を生む根源になっているケースも少なくありません。

原作者の意図に沿わない改変をされたとしても、どこで歪められたのか分かりにくくなっています。

またその伝言ゲームの多くは口頭の打合せばかりで、証拠が残りにくくなっています。

この伝言ゲームのルールにおいては、出版社とプロデューサーが手を組んでしまえば、原作者は蚊帳の外に置かれます。

 

改変が起こらないよう私が提案したいこと

そこで私は次のように提案したいと思います。

まず代理人として弁理士か弁護士を入れること。

現在法律の専門家が介在しないケースが多いのは、ドラマ化や映画化で原作者が受け取る金額が低く抑えられていることが関係していると思われます。

ドラマ化の結果、本の売り上げが増えて原作者の収入も増えるかもしれません。

しかしドラマ化単体で原作者が手にする金額が少なすぎます。

そこでドラマ化する際の契約書に、代理人として法律の専門家を入れること、そしてその費用をテレビ局が受け持つよう明記したらいいかもしれません。

またドラマ化によって原作者に追加労働が発生する場合、その時間に応じた報酬を明記すべきだと思います。

そうすれば原作者の著作権は侵害されず、金銭的不利益も生じません。

どうしてもテレビ局がその原作を使いたい場合は、法的な制約とそれを担保する費用を負担すればいい。

もしこの条件に難色を示す場合は、原作をそれほど高く評価していないか、原作を改変する気満々のどちらかです。

 

証拠を残す必要がある

上の伝言ゲームは、責任の所在をあいまいにする諸悪の根源です。

可能ならば、原作者、出版社の担当者、番組のプロデューサー、脚本家、原作者の法的な代理人など関係者が参加したウェブ会議を開くべきだと思います。

本来は記録が残るようチャット会議が望ましいですが、最低限音声を録音して記録すべきでしょう。

もちろん問題が表面化したら、再度開催すればいいと思います。

これまで記録なしの密室で行われた有象無象の発言を抑止して、質問のはぐらかしや陰湿な追い詰め方ができないようにした方がいいと思います。

従来の伝言ゲームや脚本の手直しは、とても時間がかかるもの。

しかし関係者が一堂に会して意識合わせをすれば、ドラマ制作の速度も上がります。

ドラマの放送を打ち切る権利、脚本家を交代する権利を、最初から原作者に与える必要もあります。

 

著作権保護はビジネスチャンス

弁理士や弁護士は、著作権保護をビジネスチャンスととらえた方がいいかもしれません。

サラ金の過払い請求が弁護士のドル箱になったのは、簡単なのに勝つ確率が高かったからです。

退職代行も同じ。

法的には原作者の権利が圧倒的に有利なので、おそらく同じように簡単で手軽な仕事になると思われます。

法務や顧問弁護士がいる出版社では、原作者が法的な専門家に依頼するやいなや態度が軟化し、謝罪を引き出すことができるようになります。

特に大手の法律事務所は、こうした原作者と出版社、テレビ局との相談を募ってみてはいかがでしょうか。

結構依頼が寄せられるような気がします。

法的に手厚く保護されている原作者の権利を淡々と説明するお仕事ですし。

たとえ訴訟になったとしてもかなり勝率が高いと思われます。

 

原作者は会社を移籍する選択肢もある

ドラマ化されるほどの人気漫画家は、他の出版社に移るのも1つの手です。

漫画家は沢山いますが、才能のある漫画家は常に不足しています。

ましてやドラマ化のオファーがある漫画家は、どこの出版社もほしがるもの。

奪い合っているといっても過言ではありません。

もし出版社に不満を持つ漫画家がいたとしたら、仲の良い漫画家数人に声をかけてみるといいかもしれません。

よく独裁体制の病院で、まとまった数の看護師が辞職することがあります。

しかし1人の辞職では揺るがなくとも、まとまった人数で退職を希望すれば、病院側が折れる確率が高まります。

単体では動かない方が、相手の譲歩を引き出しやすくなるかもしれません。

 

それでも日本テレビは反省するかどうか

日本テレビが反省して変わることはないと思います。

それどころか自分たちを被害者だと主張して、問題の論点をずらしにずらしまくって、絶対にこれまでの傲慢な体制を維持しようとするでしょう。

なんなら自分たちのやり方を1ミリでも変えることは、死んでも許さないまであります。

私はテレビ局や脚本家の考え方が変わることは考えにくいと思います。

あまりに深く根付きすぎていますから。

ならばこちらは変わらないことを前提に、相反する仕組みを粛々と整備すればいい。

新しい仕組みに対応できない人が、自然淘汰されることを祈りつつ。

テレビと出版業界が健全化するには、新しい世代になるのを待つか、違う人に変わってもらう他ありません。

 

日本シナリオ作家協会について

次に日本シナリオ作家協会について触れておきたいと思います。

私は日本シナリオ作家協会が、原作者の意向に反した改変をしてはいけないとはっきり表明し、規約に盛り込む必要があると思っています。

中には原作を改変できなければ、脚本家が育たないという驚くような主張をされている脚本家もいます。

原作者が大切にしている原作を、脚本家が成長する踏み台にすべきではありません。

それはオリジナルの脚本でやればいい。

また彼らはしきりに漫画とドラマとは違うと主張していますが、これは明らかな論点ずらしです。

今回の改変問題は、漫画をドラマにする時に一字一句変えてはいけないという話ではないはず。

キャラクターの特徴や行動、男女を入れ替えるような、そういう「原作レイプ」と言われる極端な改変が問題視されています。

それでもそう主張をする脚本家がいるとしたら、そんな簡単なことさえ理解できない人か、身勝手な人間性か、その両方かです。

いずれにしても、良いドラマが書ける脚本家ではないでしょう。

 

原作を改変する脚本家は淘汰される

脚本家全てが今回問題視されている脚本家と同じ考えではないことは、この件で勇気づけられたことの1つです。

ただ私は未熟で問題のある脚本家をこれ以上追い詰めることに反対です。

それは二次被害を生まないためでもあります。

それに相手を被害妄想にさせるだけのように思いますし。

追い詰めはしたくありませんが、被害妄想抜きで当事者意識を持って客観的に、今回どの点が問題だったかは語ってほしいと思いますが。

傲慢なテレビ業界の体質とそれに染まってしまった脚本家は、この機会に変わらなければいけません。

この事件を教訓にしてもらわなければなりません。

今後は原作の改変について、これまで以上に厳しい目を向けられるようになります。

変わらなければ、新しい時代の波に淘汰されるだけです。

 

この事件について今後私の関わり方

私はこの件のポストについて、一部を除いていいねやコメントをお返しいたしません。

先程述べたように私は戦闘体質ではありませんので、この事件について考えるだけで激しく消耗してしまいます。

実際この記事を書いている今も、相当疲弊していますし。

私はこの問題について思う時、様々な感情が交錯してしまいます。

こうした記事を書く自分を嫌悪しつつ、止むに止まれぬ思いを抱えながら書いています。

この記事では私の思いをフルパワーで書いてみました。

勢いだけで書いている面も否めません。

誤字脱字乱文申し分けございません。

寄せられたコメントは可能な範囲で読むつもりですが、もしクソリプの類を見かけたらミュートさせていただきます。

また余程のことがない限り、この件で新たな発信をすることはないと思います。

先日の私のポストにご意見を寄せていただいた方、拡散していただいた方には、心より感謝を申し上げます。

 

なぜこのような記事を音楽ブロガーの私が書いたか

本来私は音楽ブロガーです。

私は音楽についてワイワイ、ガヤガヤと盛り上がり、好き勝手に書くことに喜びを見出しています。

このブログはサブブログですが、音楽を楽しく語りたいと思ってメインブログとは別に開設しました。

その点、今回の記事は異色といえるかもしれません。

しかし私は今回の事件について、こう思いました。

「こんなに人の命が軽く扱われていいのだろうか」

利益や優位性を誇示するために、1人の命が失われることさえ決定打にはならない。

会社組織を盾にだんまりを決め込み、逃げ切れると思っている浅慮と傲慢さ。

しかしこれを機に世の中が良い方向に変われば、彼女の死は無駄ではなかったことになります。

 

曲のご紹介

さて最後に音楽ブログとして、つじつまを合わせたいと思います。

まず歌詞を一部引用しましょう。

何度でも繰り返しても
さようなら これっぽっちも慣れないな

愛のまま(作詞:花譜・岸田繁)

曲を聞きたい方は、以下からどうぞ。
花譜×岸田繁 – 愛のまま

この曲の女の子は交際相手と繋いでいた手を離して、姿が見えなくなるまで手を振り続けています。

人を愛おしく思う気持ちは恋愛に限りません。

人間の尊厳や別れや死に無関心になったら、そんな世界はきっとロクデモないに違いありません。

 

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