音楽を評価する時、アーティストの思想はそんなに重要なのだろうか?

先日私は以下のツイートにリプしました。

ろうなと思う。(途中で切れているので語尾を補足)

私のリプは以下の通りです。

個人的には音楽には思想性がなくてもいいと思っています。

また中途半端な音楽批評も、私にとっては必要ないかもしれません。

音楽発信者としての私は、どこまでもファン側の目線で、ただひたすら好きな理由を語りたいだけだったりします。

もしくはアーティストに代わって、その音楽を自慢したり広めたいだけ。

思想性みたいなものをほめることもあるけど、それは音楽が良いことが前提ですし。

いくら思想性に優れていても良い音楽はつくれませんが、優れた感受性は優れた音楽を生むように思います。

私はその人の思想性より、どのような感受性の人かが気になるタイプです。

ちなみに私のリプは反論ではありません。

むしろ普段自分が考えていることをまとめる機会を与えてもらったと感謝しているぐらいです。

発端は、以下の私の疑問です。

「そんなに思想は重要なのだろうか」

私は瞬間そう思って、つい脊髄反射で上記のリプをしてしまいました。

今回の記事では、その時に感じた違和感を掘り下げてみようと思います。

書きながら考えをまとめていきますので、どんな結論になるのか、そもそも考えがまとまるかどうかさえも分かりません😅

さて思想性とは大きく考えると右とか左とか、環境保護の考え方みたいなものだと思います。

しかしここでは大まかに個人の主義主張みたいな感じを想定しています。

音楽を聞いていると、アーティストの思想が明らかになることがあります。

たとえばイエス(Yes)には「クジラに愛を(Don’t Kill The Whale)」という曲があります。

しかし日本では昔からクジラを食べる食文化があって、それが環境保護団体に非難されることがあります。

では日本人はこの曲の存在を理由に、イエスの音楽とキッパリ決別すべきでしょうか。

その曲を収録したあのすばらしい「トーマト(Tormato)」を聞くべきではないのでしょうか。

そういう方もいるかもしれませんが、おそらく少数派だと思います。

私は思想と音楽を分けて考えた方がいいと思います。

そもそも思想がすぐれていても、音楽の質とはあまり関係ないかもしれません。

上のツイートで私はこう書きました。

いくら思想性に優れていても良い音楽はつくれませんが、優れた感受性は優れた音楽を生むように思います。

私は思想が間接的に良い音楽を生むことまでは否定しません。

ただ同じ思想を持っていても、もしくはその人より更に切迫感を持つ人であっても、良い音楽を生めるわけではありません。

音楽は残酷なぐらいその人の才能、感受性のあり方が質を左右するのだと思います。

そこでわたしは思想があることがそれほど重要だろうかというリプをしました。

最初のツイートを見て私は、ことさら思想性に意味を持たせていることに違和感を感じたのですね。

細かい論点ですが、私はクロスビートの読者でしたし、YOASOBIも好きですが、どちらにも思想性らしきものを感じたことはありません。

むしろYOASOBIについては、思想性の部分を空白にして、音楽だけを提供しているように感じますし。

音楽と思想の関係は、政府の有識者会議に似ているかもしれません。

政府は法律をつくる時や政策の決定をする際に、有識者会議を開くことがあります。

ただ参加メンバーは必ずしも専門家だけではなく、専門外の文化人や学識経験者が入ることがあるそうです。

専門外なのに、政策や法律の方向性を決める会議に参加しているのですね。

こうした人選に批判的な意見も少なくないようです。

アーティストの中には、思想性が強い人が少なくありません。

私は良くも悪くも政治に関心が薄い人間なので、そのアーティストがどのような考えを持っているかは気になりません。

ただ音楽家は音楽が専門なのですから、思想とは分けて考えた方がいいように思います。

たとえどんなに音楽面で才能を発揮していても、政治や思想面ですぐれていることを担保しません。

思想と音楽は別々に考えた方がいいと思います。

私は上のツイートを読んだ時、思想性があることに特別有利に働くようなニューアンスを感じました。

そう考える背景について、私が感じたことを述べてみたいと思います。

もしかしたら思想性があることは、ただの音楽というだけではないという意味かもしれないと思いました。

何か客観的な箔付けのようなもの。

私は良い音楽は思想性による箔付けは必要ないと考えています。

たとえば以下の曲は思想性が含まれていないと思われますが、大変すばらしい曲です。

The Supremes – You Can’t Hurry Love

ポピュラー音楽史上に残るこの完璧なポップソングはそれだけで完璧で、思想性で補う余地はありません。

多かれ少なかれ、本当に良い音楽とはそういうものという気がします。

思想性は含まれていてもいいけれど、それが前面に出すぎるのはよくないかもしれません。

私は「音楽的には平凡だが、思想性にすぐれているからこの曲は名曲だ」とはならないように思います。

先程の私のツイートを引用します。

音楽発信者としての私は、どこまでもファン側の目線で、ただひたすら好きな理由を語りたいだけだったりします。

もしくはアーティストに代わって、その音楽を自慢したり広めたいだけ。

私は単純な男ですので、音楽を感情と身体感覚だけでしか考えていないところがあります。

もしかしたら思想性は音楽を楽しむ上では不純物とさえ考えている形跡があります(笑)

そのせいか私は音楽評論家という言葉も少し苦手です。

ここで少し話が飛びますが、以前ご紹介した以下の曲の話をしたいと思います。

あぶらこぶ – 花になる

この曲の歌詞や映像には、多様性と共生っぽい考え方があるように感じますし、私も以前ツイートでそんなことを書いた記憶があります。

しかしだからこの曲がすばらしいという結論は、少し違うかもしれません。

私は音楽評論家の文章を読んでいて、この種の論理を感じることがあります。

その点について詳しくご説明しましょう。

確かに多様性と共生の考え方自体はすばらしいですが、だからこの曲がすばらしい曲になったわけではありません。

それはそれ、これはこれです。

いかにもそれっぽいですが、そこは安易に結びつけないようストイックでいたいと。

思想について語るのと、音楽について語ることは分けて考えた方がいいかもしれません。

私は音楽評論家の文章を読んでいて、思想について語っているだけで、音楽については何も語っていないと感じることがあります。

イデオロギーに偏っていないだろうかと。

それどころか、音楽を自分の思想や時代を語るために利用しているケースも見かけます。

そういう文章はえてして実は音楽については語っていないのに、何か意味ありげなことを語っている感があるかもしれません。

思想について語ることで、音楽について語ったつもりになってはいやしないかと感じています。

中にはすぐれた音楽批評もあるので「中途半端な音楽批評も、私にとっては必要ないかもしれません」と書きました。

音楽評論家が皆そういう人というわけではありません。

ただ時々衣を語ることだけに終始している音楽評論家がいるような気がしています。

特に音楽を入口にして時代を語りたがる人は、なかなか音楽そのものの魅力を語ろうとしません。

私は先程の曲を聞いて、彼女の感受性がすばらしいと感じ、だからこそ良い曲を生み出したと思います。

そこで先日ある場所で一言「目指したいのは、心優しき世界」と書きました。

音楽を聞いて、その瞬間感じたことを思わず書いた感想にすぎません。

もちろんこんなたわいない感想は、批評でもなんでもありません。

今自分で書いて、気恥ずかしかったです。

ただ私は批評をするつもりはありません。

その代わりにたとえ稚拙でも、自分の言葉で音楽の魅力を語ろうとしています。

そもそも私はそのアーティストの思想について語ることを否定していません。

問題は衣を偏重したり、衣しか語っていないのに、何事かを語っている感を醸し出すこと。

私はエビ本体について熱く語れよと自分に言い聞かせています。

私は衣ばかりが大きいエビ天みたいにならないように、記事では自分の主観を打ち出すようにしています。

小利口に書くな、まっすぐ伝わるように書こう。

自分の語彙力が足りない場合は、イメージだけでも言葉にしてみようと。

私は自分の中途半端な思慮深さや知性に頼るのを止め、その代わりに気持ちだけはフルパワーで語りたいと考えています。

最低限の説明をしたら、後は気持ちでそのアーティストの魅力をごり押ししています。

だから記事の最後では少し熱くなりすぎることも(笑)

我ながらイタいですし、独りよがりですし、空回りしまくっています。

私は匿名でブログを書いているので、気恥ずかしい思いをしてもかまわないと思う反面、それでもやはり気恥ずかしいです。

ただ私は思想とか時代を語ることに埋没したくはありません。
 
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